昭和は遠くなりにけり

港街から日々のよしなしごとを淡々と

皇国史観

タイトル通り「皇国史観」についての本なのだが、昭和前期について語られるのかと思いきや、話は水戸学から始まる。この本があったから、NHKの「英雄たちの選択」の徳川斉昭の回に出てたのか、片山先生。
江戸から平成・令和に至るまでの長い射程で、近代天皇制を支えてきた(支えている)論理と国民感情について、極めてコンパクトに分かりやすく語られていて、「そうだったのか!」という気付きに満ちた、これぞ新書という感じ。

幕府が、孝明天皇日米和親条約締結の勅許を求めてしまったというのは、以前から馬鹿なことをしたなぁと思ってはいたが、その要因が水戸学=徳川斉昭にあり、水戸徳川家だからこそ天皇を将軍の上に置く水戸学という思想が生まれたというのは、家康が聞いたらさぞや落胆するだろうな、という話。

結局、天皇からは開国などもってのほか、攘夷を断行せよと言われてしまい、幕府の政治は行き詰まってしまう。さらに、それを正そうと安政の大獄によって対応した井伊直弼はテロで殺されてしまう。

そこで思い出したのは田中義一
コミックの「昭和天皇物語」の新刊が出ると必ず購入しているのだが、首相の田中義一張作霖爆殺事件の処理で昭和天皇の不興を買い、天皇から叱責されたことで内閣総辞職し、その後すぐに狭心症で亡くなってしまったことを受けて、政治に不満であっても口出ししないことを天皇自身が決意するエピソードが劇的に描かれていた。

つまり、天皇の政治的発言はいともたやすく政治的な大混乱を引き起こしてしまうし、場合によっては人が死ぬ、ということだ。

天皇の政治的発言となると、まだ記憶に生々しいのが、本書の最終章でも触れられている上皇陛下が2016年に出したビデオメッセージ。
天皇自らが、皇位を譲って隠居したいという自分の気持ちや考えを、国民に直接語るなどという前代未聞なことが、目の前で(テレビを通して)行われているという、本当に衝撃的な出来事だった。

皇位をどうするのか、という極めて政治的な事柄を天皇自身が率直に語ることへの戸惑い。

あの時、非常に不穏な、落ち着かない感覚を強く持ったことを覚えているが、本書の最終章にその理由が明確に語られていた。

伊藤のつくった二つの規定、「天皇は自分の意志で退位できない」と「天皇は自分の後継者を指名できない」のうち、ひとつめが崩れたということは、二番目が崩れるということも起きうる気もいたしてまいります。 (P.221)

伊藤博文は、「天皇を誰にするか」というこの国で最も強力な人事権を、誰も、天皇自身でさえ持つことができないようにしたのだけれど、1世紀半近くが経過して、その不文律が破られてしまう可能性への不安感。

そこでさらに頭をよぎってしまうのが、つい先日の、宮内庁長官の「拝察」発言だ。
長官が、
天皇陛下新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配されておられます」
「国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大に繋がらないか、ご懸念されている、心配であると拝察いたします」
と発言して大騒動になった。

本書では、令和の天皇像は、平成のそれよりもシステムに重きを置く機関説的なものになるのではないか、と予想しているが、実は全く逆で、天皇が政治的発言をする可能性が高まっているのではないかという気もする。

令和初期に起こった今回の「拝察」騒動が、昭和初期の田中義一叱責のように、天皇のスタンスを何かしら変えることになるのだろうか。